ハプスブルク家はオーストリアを拠点に領土を広げ、中世より6世紀以上の長期に渡りヨーロッパに君臨しました。マリア・テレジアの父カール6世の頃には、ナポリ王国やミラノ公国などの旧スペイン領もハプスブルグ家の領土となりました。
マリア・テレジアの時代には、楽器演奏、演劇、ダンス等で楽しむ会食スタイルが重視されるようになりました。マリア・テレジアの夫トスカーナ公フランツが、フランス人の料理人をハプスブルク家へ連れてきたことで、宮廷にフランスの食文化も入ってきました。
モーツァルトが6歳の頃、父に連れられウィーンを訪れ、姉ナンネルとともに御前演奏した際、マリア・テレジアの膝にのったという有名なエピソードも残されています。
しかし、それから約5年後、再びウィーンのマリア・テレジアのもとを訪れたモーツァルト父子を歓迎する空気は、前回のそれからは少し変化があったようです。
その後、父はオペラの本拠地イタリアを目指すようになり、10代半ばのモーツァルトは父とともに3度のイタリアへの旅を経験しました。
父子のイタリアでの最初の目的地であったミラノは、当時マリア・テレジアの四男が統治していました。後にモーツァルトは彼の結婚祝賀オペラを作曲しています。
父子がオペラ発祥の地トスカーナ大公国のフィレンツェを訪れた時の君主はマリア・テレジアの三男であり、その宮殿においてモーツァルトの音楽会が開かれました。
旅の間、父子は食事の席にも招かれていると思われますが、彼らはどのようなお料理でもてなされたのでしょう。
フィレンツェの次に訪れたローマでは、卵とブロッコリーの料理を食したようです。
続いてナポリでは、マリア・テレジアの十女(マリー・アントワネットのすぐ上の姉でもあった)が王妃としてその才知を発揮していました。モーツァルトはナンネルに宛てた手紙の中で王妃について触れており、王妃さまは美しく、愛想がよく、6回も、それはそれは優しくモーツァルトに挨拶をしてくれたことが書かれていたようです。同じ手紙の前半にはナポリでの過ごし方について書かれ、朝は9時か10時に目を覚まし、飲食店で昼食をとり、書きものをした後出かけ、その後夕食をとっていたようですが、肉食の日には、鶏肉のローストなどを食べていたようです。
過酷な移動に耐え、慣れない土地での疲労回復、体力維持や、成長期であるモーツァルトの健康を支えていた食事は、どのようなものだったのでしょう。
今回は、父子の憧れの地イタリアで作品を生み出す力の源となったかもしれないお料理とは、どのような感じだったのかと想像し、数品を献立にしてみました。
ローマで父子が食したとされる卵とブロッコリーの料理に因んでブロッコリーのスパニッシュオムレツを作ってみました。
昨日はイースターでしたが、モーツァルト父子はローマ滞在中、招待された食事会では復活祭トルテでもてなされたそうです。イタリアでは、イースターの時「コロンバ・パスクワーレ」というスイーツをいただくそうです。オレンジピールを混ぜた生地を本来は鳩型で焼いたお菓子のようですが、ドーム型のものもあるそうですので、今回は(鳩型を手に入れることができず)丸い型で焼いてみました。
他に、ナポリで味わったかもしれない鶏肉の香草焼き、ローマを発ち旅先ではじめて飲んだといわれるココアをメニューに加えてみました。
参考文献
ハプスブルク家の食卓 (新人物文庫)(ヨーロッパで絶大な権勢を誇ったハプスブルク家の食事情について)