ラフマニノフは、1900年の冬、ロシアの文豪トルストイのモスクワの住居を訪れました。その際、期待していたのとはまるで正反対の、彼の音楽に対する批判的な言葉を受けました。それをきっかけに5日間寝込み、ドクトル・ダーリを紹介されて、それから1か月半、1日おきに通い続けました。
ドクトル・ダーリは「協奏曲がうまく運ばないのは、ラフマニノフが精神的に披露困憊していて、彼の中に強い感動的な力を結集できないからであり、彼の音楽を必要としている人々が存在すること、彼を信頼する他人があるのに、自分自身を信じないということがあろうか」と悟し、ラフマニノフの前でメンデルスゾーンの曲を演奏しました。その音楽は、ラフマニノフの傷ついた心の奥に滲み込み、彼の苦しみを一滴ずつ絞り出してくれるのを感じたと言っています。心から奏でる音楽は、人の心に届き、凍った心をも解かしていくのでしょう。
翌年の春、協奏曲(ハ短調)が完成し、完全な復活を確信したようです。
厳寒の冬、心の中にも冷たい風が吹き抜け続けた時期、彼に寄り添い、暖かく包み込んでくれた人々や、心の込もった手料理等が彼の心身を温め支えたのではないでしょうか。
ペテルブルクでの演奏会で、楽屋に来ていたドクトル・ダーリに見せたピアノ・スコアの表紙には「協奏曲 ハ短調 N.V.ダーリに捧ぐ」と記されていました。
その後、モスクワでのラフマニノフの人気は沖天の勢いで広まることになります。
後に世界的名声が絶頂に達したラフマニノフは、外国での生活や娘たちの教育資金を得るため、ピアニストとして身を立てることを考えはじめます。戦火をまぬがれ家族の安全な生活を確保し、自らの内に眠る音楽を呼び起こすため、アメリカへの移住を決意したようです。
アメリカでピアノ演奏に専念するようになって4年目を迎えた頃、彼は自分の成功を実感する一方で、健康を損ね、演奏についての欠点に苦しみはじめます。
心身共に疲れた時、思い出すのは故郷の自然の風景や、祖国での食事時に漂う家庭料理の香りだったのではないでしょうか。ラフマニノフは、ボルシチとピエロギを恋しがったといいます。
作品が完成した時には家族でパイナップルのポンチを飲んで乾杯していたこともあったようです。庭で健気に咲くライラックの白色を思い浮かべながら、ロシア料理で心を癒したのかもしれません。
今日はロシアの伝統料理ボルシチとロシアの餃子と呼ばれているピエロギ、パイナップルのポンチを作りました。ボルシチは、古くからロシアで好まれてきた温かいスープの一種です。寒さをしのぐため工夫された料理で、お肉や野菜をたっぷり使います。栄養的にも大変優れておいます。特徴的な赤い色の素であるテーブルビートの甘みが、心を豊かにし疲れた体を温め癒してくれるようです。
故郷の香りと温もりに満ちた料理を味わいながら、嬉かった事も、辛かった事も懐かしく回想していたのではないでしょうか。