フランツ・リストは、晩年のある時、ワーグナーと娘コジマからアプリコットソースの仔牛の蒸したカットレットを送られたようです。しかし彼は歯が悪くて噛むことが出来なかったようです。
リストは、彼の献身的な弟子だったリーナ・シュマルハウゼンにカットレットを渡したようです。そして彼女は、その肉を犬に与え、その間にリストのために肉汁のスープを作ったようです。
リストは晩年は入れ歯を使っていたようです。入れ歯を入れなくてもアスパラは食べる事が出来たので、彼はアスパラを好んで食べていたようです。
今日は、これらのエピソードに因んで、仔牛のカットレット アプリコットソースがけ、アスパラの生ハム巻き、野菜と挽肉をじっくり煮込んだスープを作りました。肉汁、野菜のエキスがたっぷりと溶け込んだコクのあるスープは、咀嚼能力の低下したリストにも美味しく召し上がってもらえるのではないか、などと思いながら料理を進めていきました。リストはシャンパンがお好きだったようなので、シャンパンを添えて・・・。
1876年の夏、リストは娘コジマの夫であるワーグナーの大作《ニーベルングの指輪》の上演のために建設された劇場で行われたバイロイト音楽祭に参加した際、音楽祭に訪れていたチャイコフスキーと知り合ったようです。チャイコフスキーは当時、『ロシア通報』の紙面で、この時の様子を報告していたようです。
チャイコフスキーによると、四部作第1部の一回目の公演の前日にバイロイトに到着し、駅の隣の家の窓から、皇帝の出迎えの光景を見ていると、ワーグナーの劇場の楽団員が、指揮者ハンス・リヒターを先頭に行進し、その後に、美しい、かの紛れも無い白髪を戴いたスラリと背の高いリスト師が続いていた、と書いていたようです。
バイロイトには、1874年に建てられたワーグナーの豪華な屋敷もあったそうです。地階には召使の部屋、台所があり、上階には応接間、食堂、天井の高い大広間、最上階は居室があったそうです。
当時、バイロイトにはホテルが少なく、そのレストランで食事をとるのは困難を極めるような状況があり、食事に関することの方が芸術的関心を上回る程でもあったといいます。「ビフテキやカツレツやフライドポテトのことが、ワーグナーの音楽のことよりも遙かに多く話題に上がっていた」という記述さえあったようです。
また、この土地の人々はもちろん世界各国から多くの人々が集まってきたようですが、ホテルが少ないため、訪れた人々の大多数は個人の家に宿泊していたそうです。リストも、おそらく、このワーグナーのお屋敷に滞在していた、と考えるのが自然のような気がします。
そして、もしかすると、コジマは父リストにカツレツなどの手料理を振舞っていたのではないでしょうか。これは、個人の推測ですが、冒頭のエピソードは、この時、娘コジマが作ったお料理カツレツを父リストが喜ぶと思って、プレゼントしたのではないでしょうか。
チャイコフスキーの報告によると、この頃65歳くらいのリストは白髪だったようですが、皆んなと同じお料理を味わうことは出来たのではないでしょうか。
この頃には既に父娘のわだかまりも完全に解消していたのではないでしょうか。
巨匠リストを中心に仲睦まじく家族水入らずで食卓を囲んで美味しい食事を楽しむ音楽一家の様子が目に浮かぶようですね。