作曲家と料理のお話 第8回(メンデルスゾーン)

メンデルスゾーンの両親はとても教育熱心で、音楽以外にも一般教養を身につけさせるために家庭教師を雇いデッサンの授業を受けさせたりもしていました。その甲斐あってか彼は絵画にも才能を示し、旅先の風景のスケッチや水彩画を描いたりもしていたようです。

メンデルスゾーンは12歳の時、はじめてヴァイマルにドイツの文豪ゲーテを訪ねました。
この時はメンデルスゾーン姉弟に作曲を教えていた歌曲作曲家のツェルターが、自分の娘と一緒にメンデルスゾーンをゲーテの家に連れていきました。メンデルスゾーンはゲーテの前でバッハのフーガや即興曲を演奏しました。4時間演奏するのも普通で、時には6時間、更に8時間の時もあったようです。姉ファニーがゲーテの家をスケッチしてそれが実物そっくり上手に描けたら、それを彼女の音楽の記念帳に写してくれるようにと頼んだ手紙も残っています。

ゲーテは毎夕食後に「今日はまだ君の演奏を聴いていないのだが、少し聴かせてくれないか。」と言い、メンデルスゾーンにとても親切に接し良くしてくれました。
その翌年にはメンデルスゾーン一家でゲーテを訪問し、姉ファニーもゲーテの前でバッハや自ら作曲したゲーテの歌曲を披露しゲーテを喜ばせたそうです。

メンデルスゾーンの母の叔母は、J.S.バッハの長男フリードマン・バッハの弟子でした。メンデルスゾーンはこの叔母から、当時忘れ去られていたJ.S.バッハの〈マタイ受難曲〉の楽譜を受け取り、19才の年の年末の全てをこの曲の研究に費やし、上演の構想を立てました。そして翌年ベルリンにて、この作品の復活を実現しましたが、メンデルスゾーン自身はイギリスへ行くためベルリンを離れなければならず、ベルリンでの連続上演の最終日は師のツェルターが代役を務めたようです。

ロンドンから両親に宛てた手紙では、ロンドンを「世界で最も雄大で最も巨大な装置」と表現し、クレメンティが彼の滞在中ずっと使えるように最高のピアノを届けてくれたと書いています。また「私には並外れて大きなベッド、年代物の家具があり、紅茶があります・・・。」とも書いています。
この英国旅行中、目にした風景などもデッサンしていたようですが、今回はこの時の滞在先のダイニングルームを描いたのではと思われる素描をもとに、食卓をセッティングしてみました。(小物は現代バージョンになってしまいました)

イギリスパン、チーズ、イギリスでブレックファーストによく出されるスクランブルエッグとベークドビーンズ、ケーキ、スープ、サラダです。

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メンデルスゾーンはロンドンでの音楽会の後、スコットランドを経てヘブリディーズ諸島へ向かったようです。このデッサンではダイニングテーブルの上には地図が置かれているようですが、この後の旅程の計画を練っていたのかもしれません。

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ヘブリディーズ諸島の無人島スタファ島にあるフィンガルの洞窟。メンデルスゾーンはこの洞窟に霊感を受けて作曲した。

目に映る全てのものへの新鮮な驚きと感動を形に残し、それを家族にも見せてあげ、その時の感動を分かち合いたかったのかもしれません。
描写という形で表現された感動の記憶は、時を経て姿を変え、美しい音楽に結実していったのではないでしょうか。(丸山)

参考文献
メンデルスゾーン――知られざる生涯と作品の秘密

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