????疾風怒涛の教育とは⁇

ホーム フォーラム おしゃべり広場 ????疾風怒涛の教育とは⁇

  • このトピックには56件の返信、3人の参加者があり、最後に宮澤功行により1年、 4ヶ月前に更新されました。
10件の投稿を表示中 - 1 - 10件目 (全57件中)
  • 投稿者
    投稿
  • #2468返信
    宮澤功行
    モデレーター

    《疾風怒濤の教育》について『特徴や理念は⁇ 』との質問がありましたので解りやすい例を挙げながら時間を見つけて〔Series化&Episode風〕にして書いてみますので読んでみてください。

    #2542返信
    宮澤功行
    モデレーター

    疾風怒涛はロマン主義時代の標語で,その代表的なナポレオンは創造的破壊(戦争)で新しい時代を切り開き,Beethovenは作風で新しい音楽世界を示しました。
    もし北海道で私が疾風怒涛を掲げなかったら頭で描いた音楽教育上の理想や夢は何一つ成就できなかったと思います。
    つまり疾風怒涛はあらゆる分野で既成概念を超えた新たな世界を世に示していく精神であり魂の事だと思っています。*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)’・*:.。. .。.:*・゜゚・*(続く)

    #2543返信
    宮澤功行
    モデレーター

    最初の質問『今迄で一番大変だった事はなんですか⁉️』についてですが、、、
    ⑴.理想や夢の実現は〔現実との鬩ぎ合い〕ですから全てが大変でした。
    特に北海道に居ては皆んなが絶対不可能と思っていた事々を疾風怒涛の実践によって可能に変えたことです。
    先ず
    ①.小さいが密度の濃い札幌Conservatoire????音楽院の創設と校舎の新設
    ②.欧米やMoskvaの有名な音楽院や音大との音楽交流
    ③.札幌に居ながらにして上杉春雄(日本で初めて医師とpianistの両方のプロ)くんを東京サントリー大ホールを満員にてpianistdébut演奏会を行い同時にCDを三枚製作した事。
    ④.その他,諸々あります。(続く)

    #2544返信
    宮澤功行
    モデレーター

    これは一つのEpisodeですが、、、今迄で私が一番大変だったのは娘????????Musicaと皆川先生がParis留学の際に二人分の????Pianoを弾ける住まいをParisで確保しなくてはならなくなった時です。
    予め日本で仮契約していたフランス人はバカンスに行ってしまい不在。探すのに残された日時は5日間。
    その限られた時間のなかでpianoの弾ける住まいを二部屋決め契約し,電話とℹ︎tを取り付け,Parisの銀行に口座を開設し,サイレントpianoを選定し契約,家具付きで無かったので暮らすのに必要な家具調度品を(ベッドから食器,冷蔵庫,掃除機,炊飯器,etc)全てデパートから運んで、、、兎に角,脳細胞をフル回転させてParis中を駆け巡り全てやり遂げました。
    考えてみるとこれが私にとって最も大変な出来事でした。
    何故なら私はフランス語を全く話せないからです、、、皆様、試しにやって見てください。フランス語が話せても3ケ月かかると思います‼️

    #2561返信
    宮澤功行
    モデレーター

    《疾風怒涛の教育 その⑴ 子育てについて》
    子育てを大成功に終えた私達夫婦は,もし私達が実践してきた事が皆様の参考になればと思って書いてみます。
    既に色々な雑誌に掲載されてきましたが先ず夫婦で誓ったのは《子育てに手抜きはしない》です。
    次に掲げたのが
    ⑴.時間と空間を超えた教育
    ⑵.学校など諸々の事で子供に付けられる点数には全くこだわらない。偏差値よりは(変だ値)を重視。
    ⑶.旅の活用(Mozartの《旅をしないと人間ダメになる》に倣う。
    ⑷.自立・自尊・自己責任・型の欧米では主流の子育て
    ⑸.教育投資・教育奉仕を否定して新たに教育消費を実践、兎に角,子育てに関する全てを楽しく,愉しんでする
    ⑹.私の両親はVocabularyを選び全く叱る事無く私を育ててくれましたので,これも倣いました。
    【続く】

    #2562返信
    宮澤功行
    モデレーター

    《疾風怒涛の教育 その⑵ 子育てについて》
    ⑴.時間と空間を超えた教育
    *.時間⇨現実、空間を子供のテリトリーの範囲内、と置き変えると分かりやすくなりますが実際多くの方々は世間体とか既存の習慣に引きづられて時間と空間を超えられないで現実に流されていきます。
    ⑵.学校など諸々の事で子供に付けられる点数には全くこだわらない。
    *.偏差値よりは(変だ値)を重視。⇨私は点数は見ると氣になるから見ず学校の通知表も先生からのメッセージのみ拝見。
    点数を全く気にしないので私の頭には落ちこぼれと云う概念が無い。
    ◇.最近政府が(異能ファンド)を設置、変わってる人間を登用し採用。
    ⑶.旅の活用(Mozartの《旅をしないと人間ダメになる》に倣う。
    *.日本の中だけでというのでは無くグローバルな人材に育てたかったので旅をしました。⇨語学と音楽の早期教育
    ⑷.私の両親はvocabularyを選び全く叱る事無く私を育ててくれましたので,これも倣いました。
    *.叱られる事を頭にinputした子供は指示待ち人間になりやがて自分では何も考えなくなります。
    【続く】

    #2563返信
    宮澤功行
    モデレーター

    《疾風怒涛・以前 その1》
    桐朋音大の2年生の時,師事している井口愛子教授から校内演奏会の委員長を頼まれました。その理由は『校内演奏会そのものが形骸化していて毎回ホールにお客様は数名,なので演奏する側も力入らず、、、何とかして欲しい』との事でした。
    崇拝し尊敬する恩師に頼まれましたので気合い充分。様々な改革・改善を押し進めました(例えばprogramに演奏者のcommentと聴いている側の批評を掲載したり10回聴く事で単位を取得できる、とか諸々)
    極め付きは校内演奏会を盛り上げる為に私がMozartのK491.c-mollを桐朋オケと共演する企画を打ち立て実行に移した事です。
    腕利きの桐朋生の1人1人に頭を下げて共演を頼みましたところ案に相違して皆快諾してくれ10回の練習にも参加してくれました。
    ところがいざ本番と云う段階になって《桐朋オケを学校に断り無く編成して演奏会など,とんでも無い、、、直ちに取り止める事、オケのパート楽譜は貸し出さない》と強烈な圧力が学校側からかかってきました。
    この事をオケメンバーに『取り止め無いと皆に迷惑がかかると思う』と正直に話したところ《ならば我らが写譜ペンでスコアからパート楽譜を作るからやろう、、、》となりました。社会的には個人主義集団とみられていた桐朋生が私の為に手書きで写譜をして演奏会をしてくれたのです。
    あとにも先にも桐朋で自分でオケを編成してpiano協奏曲をしたのは私だけかも知れません。
    これらの事がありその後,校内演奏会は20回連続で満員。私のMozartの時には学長もホールに入られずでした。【続く】

    #2564返信
    宮澤功行
    モデレーター

    《疾風怒涛・以前 その2》
    その1の続きですが桐朋オケの最高責任者で神様的な先生、斎藤秀雄教授に私が桐朋オケを編成し何故piano協奏曲を行ったのか⁉️の事情説明に行きました。
    『校内演奏会が盛会になる様に愛子教授から依頼された事とsolisteが上位下達で学校側が決め公開オーディションもされないなら私がsolisteにはなれないと思う、、、何故なら大先輩の中村紘子さんや野島さん弘中さんetc…ひしめき合ってますから』と率直に意見を述べてみました。
    結果《男の子は面白い》と言われsolisteはオーディション方式になり私のLessonも熱心にして頂きました。
    考えてみると神様的な斎藤教授にこの様な意見を述べた桐朋生は1人もいなかったと思います。
    でも私の行為と実践の結果に対して桐朋の先生方は全員高い評価を与えてくださいました。

    #2568返信
    宮澤功行
    モデレーター

    《疾風怒涛・以前 その3》
    桐朋入学してからの私は素晴らしい友,もの凄い友➕当時の日本を代表するもの凄い4人の教授(井口愛子・斎藤秀雄・井口基成・小林武史)に恵まれ我が前途は順風満帆でした。
    中でも室内楽科の小林教授は私の才能に惚れ込み学生の私を日本各地の演奏会に出してくれるにとどまらず『君は世界に飛び出ないといけない、、、』と言い実際に東南アジア各国の演奏会にも推薦してくれました。
    ところがMuses(音楽の神々)はそんな私に人生最大の試錬を与えてくださいました。
    其れは大学3年の時です、、、愛子教授から『宮澤功行を退学に処して頂きたい云々と云う手紙が北海道の大ボスの音大教授から届いているが何か思い当たることは無いか?』と実際にその手紙を見せられ読んで聞かされました。
    もちろん根も葉も無い事ばかり書かれていたので全くお咎め無し,学長始め周りは皆,投書した北海道の教授を非難して一件落着しました。
    しかしながらまだ純だった私はそんな投書をされた事に大ショックを受けて北海道の奈井江町にいったん引き篭もってしまいました。病弱で医師から3回ほどもう助かりませんと告げられたにもかかわらず肉体的には健康になった私がこの一件で精神的な病にかかり毎日を奈井江町で過ごしていました。
    そんな失意の私に対して母は『功行は生きていてくれるだけで良いのよ、、????????Chopinを聴かせてくれるだけで良いんだよ』と…私の教育費を全てまかなってくれたこの母の言葉に私は自殺を踏みとどまり奈井江町でpianoを弾き犬の散歩をする毎日を過ごしていました。【続く】

    #2569返信
    宮澤功行
    モデレーター

    《疾風怒涛・以前 その4》
    〔捨てる神ありゃ救う神あり〕
    失意に満ちた奈井江時代,私は立つと天井に手が届く屋根裏部屋に住んでいました。
    そんなある日恩師から『宮澤くんを東京でpianistdébutさせることにしたからもう一度東京へ出て来ないかい⁇』と電話がきました。
    何の当ても無く暮らしていたので『よろしくお願いします????』と即答。
    しばらくして『東京文化会館(当時は日本で最大の音楽ホール)でオランダの巨匠ウィレム・バン・オッテルロー指揮、読売交響楽団でsolisteは宮澤功行。曲はBeethovenの皇帝に決まった。失敗は許されないが受けるかい⁇』と手紙と電話がきました。
    田舎に落ちぶれたpianistを救済することなどあり得ないと思っていましたので二つ返事でまたまた『よろしくお願いします????』と即答しました。
    演奏会は大成功を収めて私はやっと半人前の音楽家になれた感じがしました。
    その時のprogramはBeethovenの序曲とpiano協奏曲(皇帝).そして英雄交響曲でした。
    札幌への帰路,津軽海峡を渡る連絡船のデッキでナポレオンが島流しにあい,再帰し皇帝に帰り咲く故事が脳裏をよぎりました。
    【続く】

10件の投稿を表示中 - 1 - 10件目 (全57件中)
返信先: ????疾風怒涛の教育とは⁇
あなたの情報:




スポンサーリンク
宮澤功行をフォローする
札幌コンセルヴァトワール公式ブログ