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  • このトピックには413件の返信、18人の参加者があり、最後にDr.Cloverにより2ヶ月前に更新されました。
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  • #6300返信
    makiko
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    おはようございます。
    今日の札幌は日差しが届く-3℃。昼間でも厳冬の寒さになりそうです。
    道内では例年より早く、インフルエンザ警報が発令されました。
    体調管理には十分気を付けてください。

    1904年1月9日の今日、ドビュッシー作曲 ピアノ曲 『版画』がリカルド・ビニェスによって初演された日です。
    3つの異なる土地を連想させる三極で構成されています。
    第1曲、塔(パゴダ)は、ガムラン音楽の影響も見られ、ペンタトニックを使用し、インドシナの民族音楽を模倣し、アジアを暗示。
    グラナダの夕べ は、ギターの掻き鳴らしの模倣とアラビア音階(マカーム)を使用、スペイン情緒表現。作曲当時のドビュッシーのスペイン体験は、サンセの街で数時間を過ごしたことだけでしたが、スペインの作曲家マヌエル・デ・ファリャは、「1小節たりともスペイン民謡からは借用されていないにもかかわらず、作品全体が、ほとんどの細部において、スペインを見事に描き切っている」と評しました。
    雨の庭は、《忘れられた映像》第3曲の改作で、フランスの童謡《もう森になんか行かない 》や《眠れ坊や眠れ 》が引用され、ドビュッシーの母国フランスの庭園に篠突く雨が描写されています。半音階、全音音階、長調、短調が混在しています。

    Buona giornata!!

    #6301返信
    makiko
    モデレーター

    こんにちは!今日の札幌は雲が広がる3℃今夜も冷えそうです。
    風邪が流行っています。長引く風邪のようです。十分休息をとってください。

    1890年1月15日(新暦)の今日、チャイコフスキー作曲 バレエ音楽Op.66「眠れる森の美女」がマリインスキー劇場において初演された日です。
    サンクトペテルブルクの帝室劇場総裁イワン・フセヴォロシスキーがチャイコフスキーに、ペローのおとぎ話『眠れる森の美女』に基づくバレエの音楽が欲しい、と1888年5月13日新暦では5月25日手紙を送りました
    『眠れる森の美女』の作曲に当たってチャイコフスキーが取り組んだ台本は、ペローの童話を基にフセヴォロジスキーが書き下ろしたもの。振付は、ロシア帝室バレエのバレエマスター(振付・演出家)マリウス・プティパ。プティパは作曲に必要な指示を詳細に書き、チャイコフスキーはこの新作を、フロロスコエの自宅ですばやく書き上げました。1888年冬に草稿に着手、オーケストレーションを1889年5月30日に開始。
    ゲネプロに、アレクサンドル3世は皇族をつれて観覧し立ち去り際に、たった一言「とてもいい」、期待とは違う反応で苛立ったといわれています。
    1893年に他界後1921年のロンドン公演で国際的に古典的なレパートリーとして不朽の地位を得ました。しかしそれはチャイコフスキーとプティパが作った『眠れる森の美女』を基にしながらも相違があり、また、ロシアにおいても革命・ソ連時代を経て異なるものに変わっていました。原作がどういうものであったのかが分かったのは、1999年4月30日、ロシア、サンクトペテルブルクのマリインスキー・バレエが復原版の上演でした。
    原作バレエの上演前にアレクサンドル・ジロティによってピアノ独奏版、1892年にジロティとチャイコフスキーの監修を受けたラフマニノフによる連弾版が出版されています。また演奏会用組曲(作品66a)が存在しますが、これはジロティが作曲者に提案の上で編纂したものです。

    Buona  giotnata!!

    #6428返信
    makiko
    モデレーター

    おはようございます。

    今日の札幌は今日は青空が広がっていて-3℃。連日寒いですし、インフルエンザ、風邪が猛威をふるっています。
    防寒、風邪対策万全にして下さい。

    明日は、札幌コンセルヴァトワール講師 徳田先生 北浜先生によるコンサートがキタラ小ホールにて開催されます。
    是非足をお運び下さい。

    1859年1月22日の今日、ブラームス作曲「ピアノ協奏曲第1番」 ニ短調op.15が、ハノーファーにて、作曲者ブラームス自身の独奏ピアノ、ヨーゼフ・ヨアヒムの指揮により初演された日です。

    ハノーファー初演は一応成功したものの、5日後のライプツィヒ初演が行われたとき、聴衆は退屈のあまりに非難の野次を飛ばしたといわれています。ブラームスはヨアヒムに宛て「僕はただわが道を行くだけです,それにつけても野次の多さよ!」書き送っています。

    元々は1854年3月に3楽章構成の『2台のピアノのためのソナタ』として書き上げられたものが原型でしたが、ブラームスはクララ・シューマンと何度か試奏してピアノという形に不満を抱き、1855年2月、協奏曲にするとひらめきました。
    クララ・シューマンや親友のヨーゼフ・ヨアヒムの助言を受け、彼らが納得いくまでブラームスは改訂を加え、クララによると第1楽章は1856年10月1日に完成、そしてブラームスの私信によればフィナーレは12月、そして新たに書き出した第2楽章は1857年1月に完成しています。

    Buona giornata!

    #6440返信
    makiko
    モデレーター

    こんにちは!今日は凄く寒いですね。インフルエンザ、風邪猛威をふるっています。発表会も近づいております。体調管理には十分ご注意ください。

    1905年1月29日の今日、マーラー作曲 声楽とオーケストラのための「亡き子を偲ぶ歌」がフリードリヒ・ワイデマンの独唱、作曲者自身の指揮によりウィーンで初演された日です。
    歌詞はフリードリヒ・リュッケルトの同名の425篇ある詩から引用されました。
    この詩は、リュッケルトの子供の中の2人が1833年の冬から1834年にかけて相次いで死ぬという出来事のあった後に書かれました。
    マーラーはこの詩から5篇を選び、1901年から1904年にかけて作曲しました。
    「いま晴れやかに陽が昇る」
    「なぜそんなに暗い眼差しだったのか、今にしてよくわかる」
    「きみのお母さんが戸口から入ってくるとき」
    「いつも思う。子供たちはちょっと出かけただけなのだと」
    「こんな嵐のときに」

    この曲集を作曲した4年後、マーラーが娘を猩紅熱によって4歳で失いました。
    グイド・アドラーに書いた手紙に
    「私は自身を、私の子供が死んだと想定して書いたのだ。もし私が本当に私の娘を失ったあとであったなら、私はこれらの歌が書けたはずがない」。

    Buona giornata!

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