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- 宮澤功行モデレーター
《疾風怒涛の教育 対話篇.4》
アルゲリッチ音楽祭でお世話になった桐朋同窓の大分県の宮原先生から当時の想い出として「それにしても昔のピアノの先生はやたら厳しかったよね~~」との話しが出ました。
桐朋に限らず戦後解禁になった洋楽を取り入れる際に日本人は戸惑ったのだと思いますがそれは:
①其れまでの軍隊教育スタイルの指導法と日本古来の家元制度のスタイルを取り入れた。
②大部分がスパルタ方式の精神主義に基づく音楽教育で体育会系と変わらぬ根性主体の音楽指導法、*などが本来の音楽の教育とは全く異質の考えでされていた時代が長かったのは否めない事実でした。
それは厳しい方が良い先生と云う錯覚を起こさせるもので(北から南まで間違った教育のオンパレードの時代)と言い換える事も出来ます。*もし,若い頃から,真の音楽教育を求めてヨーロッパ行脚をしなかったなら私も何の疑いも疑念も持たずに①~④を受け入れてしまったと思います。
実際,私が体験し経験したヨーロッパ各国の著名なピアノ教授や音楽家のレッスンは日本とは真逆のスタイルで行われていたのに強い衝撃を受けました。
帰国後も多年に渡り欧米の著名な演奏家や教育者と交流を続けていく中で日本の音楽教育やピアノのレッスンスタイルは変わらなくては駄目になると思うに至りました。
実例を挙げて実際の教育スタイルの違いについて数点述べてみます。先ず,殆ど100%の著名な教授はレッスンの最初に生徒の人間性・考え・人格を認めた上でレッスンをスタートさせます。
日本の①~④の音楽教育はこの真逆で生徒の人格や人間性を全否定するところからレッスンがスタートします。
つまり生徒を認めない訳ですから言葉の暴力や肉体への暴力も加えて先生への絶対服従を強いたりします(つまり徒弟制度・奴隷制度によくあるスタイルです)。
ここから産み出される芸は独裁国家のマスゲームや宗教団体に見られる集団パフオーマンスの様な芸で,個人の個性は圧殺され従わないとみなされたら破門にされ音楽業界から閉め出されます。
才能がある生徒でもやがて自分を脅かすライバルと感じたらそれだけで追放の手段に出ます。次に指導する教授の方から生徒に対して必ず「何か質問は??」「分からない事は?」と訊ねてきます。
あるイタリア人の学生はこの質問に対し延々と「自分は此処はこの考えで、あそこはこう云う方法で、、、」と自分の考えをとうとうと述べて教授に逆に質問したりしており日本では考えられない光景でした。
なぜなら当時の日本のピアノ教室では質問事態を受け付けない空気感が常にレッスン室を支配していたからです。三つ目は娘をある高名なフランスの音大教授にお願いした際の事ですが教授は開口一番「私を選んでくれてありがとう!!感謝します」と、、、これも当時の日本の教授が生徒を選ぶスタイルとは真逆の出来事でした。
極めつきはある著名な教授のLessonを終えた生徒がその教授に向かって『貴方のLessonは毎回同じで何ら得るものが無いので今日のLesson料は払いません』と言い教室を後にしたことです。
自分が納得したLessonにはお金を払うが教授の勉強不足には納得できないから払わないという合理的な考え方は日本で受け入れられる事はありませんが衝撃波が私の心に押し寄せました。この事をもし当時の日本の教授に当て嵌めたなら大半が高級詐欺師で訴えられるのではと感じたほどでした。
確かにその後お会いし影響を受けた欧米の教授の大多数には(演奏力・指導力・人間力)が充分そなわっており,日本で採用がグローバル化されたなら「絵を描かない絵描き,詩を書けない詩人」が大半をしめる日本の音大教授は欧米の人材に置き換わるだろうと思いました。
逆に考えると世の中があらゆる分野でグローバル化しているにも関わらず旧態然とした採用(縁故主義と大学の私物化)によって日本はガラパゴス化し絶滅の危機を迎えているように感じています。
*、残念な話しですが毎年,世界の大学ランキングで日本の大学が低レベルに張り付いている事が,この事を如実に物語っていると思います。いずれにしても親は下記の教育から自分の子供に合う教育スタイルを適切に選択して欲しいと思っています。(因みに私の親は①、、私は⑤かな??)
①、全人教育(古典教育)=幅広い教養と人間教育が主体(女子の場合は花嫁修業の一環として行うが全体としては金太郎飴的な人間に仕上がる)
②、才能教育(早期教育)=幼少時から徹底して打ち込む(方法を誤ると人格に問題を起こし破滅型人生を歩む場合もある)
③、自由放任教育(自然教育)=結果はほとんどが猿状態のままで人になれない。
④、マスプロ型教育=①の派生型で広く浅くを詰め込む方法でこれも金太郎飴的人間に育て上げるのには最適
⑤、少数精鋭教育=②の派生型で能力によって差別(区別)し、それぞれの能力を最大値まで開発していく
⑥、無責任教育=③の派生型で全て他人任せ(セイダ病に罹る⇒自分が悪くなったのは社会のせい、友達のせい、先生のせい、学校のせい、、、etc),また,その反動から過保護・過干渉に育てる。*、自分の子供を駄目にしたいと思う親はいないはずですから子供を間違いなく立派に育てるには??を私はピアノを通して一緒に考えて実践してみたいと常に思っています。
宮澤功行モデレーター≪疾風怒涛の教育 雑学その1≫
(楽譜について)
医者に何度も見放されるくらい病弱だった幼少のころの私の家は家族,親戚が日本舞踊に和楽器(琴・尺八・三味線)を嗜でいましたので何だか訳の解らない記号と文字と線が書かれてある本がたくさんありました。
それが和の音楽を表す楽譜というものだと知ったのは4歳の頃でした。
病床で蓄音機やラジオから聴こえてくる三曲の調べ、民謡・童謡・童歌は「私の音楽の故郷」として今でも心の奥底で鳴り響いています。
やがてピアノ(洋 琴)を習い始め、それらの音楽やコオロギや鈴虫の声、風の音、祭りのざわめき等を楽譜にしてピアノで弾いてみようとしましたが、当時の私は音と音の間にある音楽とかリズムの微妙な具合を記す方法を知らず楽譜にすることは出来ませんでした。
近年「楽譜に忠実」に演奏することが主流となっていて原典版と原典版を更訂した「原典版の批判版」なるものまで出版されています。
そして演奏者にも「楽譜通りに弾く努力」を当然のこととして求め「楽譜をきちんと読む」あるいは「楽譜に書いてあることの奥を読む」ということが強く求められています。しかし昔の尺八の楽譜や文字で書かれた義太夫の楽譜等から響きや音としての音楽は全く解りませんし、ユダヤ教の音楽が楽譜の無い時代からシナゴーグで伝承されてきたことやジプシー(ロマ)などの民族は楽譜を読めなくても、書けなくても、心に響く音楽していることを考えると、改めて一体楽譜って何だろう? と、思うことがあります。
もし『最初に音楽ありき』と言うならばダレッツオの開発した近代記譜法にはすでに限界が感じられます。
私は今の時代こそ定量楽譜にネウマ譜のトルクルス・レスピヌスやキリスマの様な記号や尺八の楽譜に見られる線、等を付け足した「新・定量記譜法」を発明してみることを次代を担う作曲家たちに推奨したいと思っていて私はそれを待ち望んでいます。
あの幼子の魂を揺さぶった音楽が音楽の原初的なものであり本質であるなら今一度、定量楽譜の縛りから開放され「一音・一音の音の密度」と「音と音の間に漂う音楽」を存分に味わってみたいと思う今日この頃です。
なぜなら、そここそが日本人である私の音楽の魂が帰属出来る空間と思えるからです。宮澤功行モデレーター≪疾風怒涛の教育 (信用・信頼について)≫
一介のピアニストに過ぎなかった私が今の音楽院の校舎建設も含め方針・理念を導き出したのは20代の頃です。
でも実際に社会に出て活動を始めると余りにも多種多様の難題・問題が我が身に押し寄せ,とても今の建物を建設するのは無理と思い知らされました。
理由は①病気の母と祖母などを抱え大家族の中で暮らしていた事。②大学を出て直ぐなので預貯金はゼロ。③土地も無し。④夢や理想を語れども現実を直視した者達の意見でことごとく潰され賛同者はゼロ。⑤両親に資産は無かった。⑥働けど働けど日々の生活に追われ建設資金は全く貯まらない状態が続いた事、、、etc。私がこの様な状態だった事を考えると当時の反対者達の意見は常にごもっともだと思います。
にもかかわらず札幌コンセルヴァトワール建設に漕ぎ着けたストーリーは最初の疾風怒涛に書いてありますので割愛しますが実際に音楽院が完成した時には胸が震え感動感激の涙が頬を伝わったのを今でも想い出します。
99%の反対で音楽院建設は叶わないと諦めていたのが我が人生の結晶として此処(札幌市南区澄川4条2丁目16-1)に建ったのですから札幌コンセルヴァトワールに今でも強い愛着を感じています。なので私は日々此処でピアノと向き合っている事自体が嬉しいのです。
こうして毎日,生き生きと明るく????Pianoの練習とLessonを続けていられるのはただ単にピアノが好きと云うだけで無く,全てを一から考え自力で築いてきた人生だからだと思います。この建物が完成して30年経っているのに外見も中も全く新しい感覚の建物というのも最高です。
つまり古いのに新しいって云うのがいつも凄いなあ~~と感じますし,小さいがCDやDVDの様に密度濃く,無駄なく隙なく音楽の勉強に必要な事が満たされているこの建物の特徴も人生に厭きがこない理由と云えます。
この建物の設計に関する考えは先に述べた様に20代の頃にすでに考えていたのですが世の中,破滅型人生を歩む音楽家が多い中でローン返済の渋滞・延滞・滞納ゼロで完済し今日に至っています。私は少しだけ音楽家の社会的信用の向上に貢献できたかも知れません。そして世界を見渡すとユダヤ人の成功者が世界を牛耳っていると言っても寡言ではありません。
有名な「ユダヤ人の成功の法則」と云うのがありますが私はユダヤ人の教育本と共に人生の節目でかなり参考にしてきました。
1,ポジテイブに笑う。2,他人とは違う意見と発見をしなさい。3,権威を憎み,貴方が権威になってはいけません。4,逆境こそチャンスととらえましょう。5,お金より時間を大切にしなさい。
6,まずは元手がかからないことから始めなさい。7,相手の話は自分の話の二倍聞きなさい。
8,生涯、学び続けなさい。9,お金は奪われてしまうが、知識は奪われることはありません。
10,知識よりも知恵を大事にしなさい。
*,今日は以上です。Mizue Tanase参加者宮澤先生
大変勉強になりました。
本当にもっともなことです。このように生きていければ心から幸せと生き甲斐を感じる最高の人生を歩めますね。宮澤功行モデレーター《疾風怒濤の教育 (ピアノを糧に築く人生)》
札幌Conservatoire????にはその一つひとつの出来事がまるで小説になる様なことも沢山あります。
生老病死の深い問題にも日々直面します。
人生は色々ですがやはり人がより良く,そして力強く生きて行く上では決して点数やお金に換算する事が出来ない芸術(音楽を含む)の勉強が絶対に必要だと益々感じています。今,長年取り引き関係にある北洋銀行から『全てのローン完済なので土地建物の抵当権を外す手続きをさせて頂きます。云々、、』と電話がきて心の中で思わず万歳しました。
私は昔の男なので男は外で働き無条件で妻子を養うべきと考え一生懸命働いてきました。
教育ローンなどは一切借りずで頑張ってきましたのでお金は其れ程貯まっていないのにとっても幸せな毎日を過ごしています。
昨晩も打上げの後で山下先生が『私のこん日あるのは全て宮澤先生のお陰です。なので師事した先生も宮澤先生しか書かないことにしています。先生に本当に心より感謝しています』と私の手をもの凄い力で握手してきました。握手の力よりも彼の言葉に思わず涙目になりました。
長い年月で築かれた決してお金では割り切ることが出来ない心、人の心情の奥底に触れられた私は本当に幸せ者です。
昨晩の打上げではワインを8人で赤白二本だけなのに疲れていたのか酩酊してバタングーでした。
そうして迎えた快晴の朝????カーテンの隙間から陽がさすなか隣の寝顔に癒されつつ爽やかに目覚めました。
もし隣に????????陽子MAMAが居なかったら私の人生は無機的な淋しさに耐えられずとっくの昔に破滅したなぁ〜と,つくづく思います。
なので私は存在そのものが偉大な女性を尊敬し崇拝して毎日を暮らしてきました。
そして共に音楽を生業として築いてきた人生の結果に大満足、日々幸せを感じて生きています。
????????陽子先生と????音楽院の講師の皆様には感謝の言葉以外みつかりません。
ピアノを通して良き妻、良き母を目指すもよし、ピアノで幸せになった私の人生を参考に????音楽院の講師と生徒の皆さまに幸せになって欲しいと願う毎日です。宮澤功行モデレーター≪疾風怒涛の教育 (一所懸命)≫
他の分野と同じくPinoの先生とPianistの生き方も多種多様。
その仕事の形態はA(演奏家として全国各地や世界を飛びまわって仕事をしていくスタイル)とB(都道府県の地域に腰を据え仕事をしていくスタイル)の大きく二つに分かれると思います。
もちろんこの中間Cもあります。
若い頃の私はもちろんAで少し歳を取ってからはC。今はBです。欧米の音楽家と話していて面白いのは彼らは多民族であり,そのルーツは狩猟民族だと云う事です。
優秀なユダヤ人音楽家でさえジプシー(ロマ)型のマーキングスタイルで教育も演奏もしながら世界各国を渡り歩きます。
私も学生時代はそのスタイルに憧れ自分もそうしたいと頑張っていましたが,直ぐに日本人には矢張り少々無理が在る様に感じられ私は逆の生き方を考える様になりました。
元来,病弱で身体が弱かったのもありますが,ひとつの所で頑張るスタイルを取る決意をしました。
これが札幌コンセルヴァトワールのもう一つの成り立ちの側面です。
一所懸命はやがて一生懸命という漢字になりますが元々はお百姓さんがその土地を動かず(種子から実に成るまでを育て上げていくスタイルの生き方)から誕生した言葉です。学生を終えた頃は自分を鍛え上げそれなりの立場を築くのに無我夢中でしたからジプシースタイルであらゆる仕事を引き受けてこなし,それが音楽家の生業と思い込み生活をしていました。
それが才能の浪費・体力の消耗につながるとは夢にも思わず,考えもしないで闇雲に頑張っていた時代が結構長く続きました。やがて札幌に居を構え個人的な音楽教室を始めた頃に出会った音大教授から「宮澤さん種から育てるよりは成った実を美味しく頂く方が簡単で手っ取り早いよ」「学生の演奏に駄目、、、響きが悪い、、、音楽性に問題ありと減点法で問題点を言い続けていたら自分の権威や地位は安泰だし、、、大学に来ない??」等と誘われた時には思わず「ムムムム、、、」と返す言葉を失いました。
桐朋学園大学に入って音楽家として育てて頂いた私は,その他の社会の構造(ヒエラルキー)問題や音大の仕組みの歪みなど知る由もなく社会に飛び出ましたからビックリです。
一瞬にして北海道の音大に進学させる意欲が失せてしまいました。
なぜなら大切に育てた生徒たちを食い散らかされるのは嫌ですし,教授の諸々の発言から育てると云う概念や責任感を全く感じなかったのです。
音大の教授は預かった生徒が伸びないのは「生徒に才能が無いから」「昔の先生の指導が悪かったから」。
結局,教授自身はそれで安泰という図式。個人でピアノ教室をスタートさせた場合,この図式は全く当て嵌まりません。
生徒がコンクールや入試に落ちた場合「その原因は先生の指導に問題がある場合が多い」のに直ぐ気付かされます。
つまり大学の教授と真逆の考えで無ければ直ぐに倒産、自分自身もつぶれて行きます。当初は反省と自己批判の毎日です、、、。
落ちたり失敗したりを決して生徒や親の責任に回避することなく生徒と一緒に涙し・笑い・怒り、、、の連続。
生徒の演奏の失敗・音楽的な未熟さの一端は自分にありと考えながら今までとは異なる前衛的な音楽解釈で世に打ち出して行きました。
自身が生徒と共育していった懐かしい日々を今でも時折想い出しますがその結果として40数年間,各種コンクールで上位入賞を果たしています。
PTAN指導者賞も34年間連続受賞です。今日も朝から生徒達とピアノに向かいより優れた演奏と音楽を求めて格闘していましたが創造的な仕事は本当に楽しいです。
今は私にこの様な日々を授け与えて下さったMuses(音楽の神々)に深謝する毎日を送っています。宮澤功行モデレーター≪疾風怒涛の教育 (私塾)≫
私が音楽家としての教育を授けられたのは「桐朋学園大学ピアノ科」で師事したのは桐朋の音楽科を創設した「井口基成・井口愛子・斎藤秀雄」と室内楽の小林武史の4人の教授です。
戦中,西洋音楽は禁止されていたので戦後に創設された桐朋の先生方の目標は「世界に追いつき追い越せ」でした。
学校の方針は「少数精鋭の才能教育に特化」で,特訓を重ね「欧米に出しても恥じないレベルの音楽家を育てる」のを目的とし,それが教育の中心に据えられていました。
学生には教授か講師が一人レッスンを担当しますが私の学年はピアノ男子が私一人でしたので4人の教授に様々な音楽上の特訓レッスンを受けるという大変恵まれた学生時代を過ごしました。
直接の担当の井口愛子教授はレッスンの帰りには毎回お菓子や果物を持たせてくれて時々ご馳走をして下さったり、、、今の音大では考えられない教育を授けられたと思います。
その教育形態は日本文化の偉大な伝統を形成した私塾を思わせるものでした。
江戸時代の私塾は教師の自宅が教える場で寺子屋と同じく「教師と経営者とが同一人物」です。
桐朋学園に間借りする形で創設された桐朋の音楽科は学校法人として「教育者と経営者」が一応分離していましたが当時の桐朋学園の実態は正に私塾の様でした。Wikipediaで調べると日本の私塾が成した功績の偉大さが良く解りますが通った頃の母校・桐朋に似ているとして私が憧れたのは下記の私塾です。
先ずは本居宣長の「鈴の屋塾」、緒方洪庵の「滴々斎塾」、石田梅岩の「心学舎」、そして有名な吉田松陰の「松下村塾」などです。
その後札幌へ帰り桐朋で受けた私塾の様な教育をとの思いに拘り札幌コンセルヴァトワールを創設し,夢と理想を掲げて頑張ってきての今日です。
小さな小さな私塾の様な音楽院ですが他では考えられない素晴らしい成果を挙げ続けているのはご存知の通りです。やがて多くの生徒達を母校に送り娘も両親の母校でと考えていましたが創設者の次の代の理事長が富山県に桐朋の大学院大学を創る事に絡んで10億円の詐欺を働いた事件が起き娘Musicaを母校に送ることを止め直接留学させることに決めました。
当初,母である陽子先生の学んだウイーンへと考えていましたが娘自身がフランス音楽を学びたいとの決意を示したので急遽Parisに留学先を変えました。
結果はMusicaのプロフイールに書かれていますので割愛しますが大成功を収めました。
母校の詐欺事件は悲しい出来事でしたが学校法人を隠れ蓑に私利私欲を肥やす理事長・理事の類が日本の音大の質の低下を招いています。
今日も日本の音大が抱える本当に残念なNewsに触れ開いた口がふさがりません。
教育理念を失った教育機関(大学)は拝金主義者の餌場の様にさえ感じます、、、。
音楽教育や音楽家の仕事は形が無いだけにどう考えても経済合理性には相容れず,割り切れもせず,薄給や重労働(練習)にもかかわらず安いギャラに甘んじて仕事をしている側面があります。
少子高齢化の加速により需要と供給のアンバランスも物凄い勢いで膨らんでいますから経済的な側面だけを考えるなら矢張り医師や他の職業に就かれるのが賢明な選択なのかも知れません。
そうした社会状況にもかかわらず「形の無いところにこそ物事の本質が在る」と信じて頑張っている音楽家を裏切るような仕組みはやはり改めて行かなければと思う今日この頃です。宮澤功行モデレーター≪疾風怒涛の教育 (学園紛争)≫
全学連と機動隊の闘争⇒「新宿騒乱・浅間山荘事件・安田講堂事件・etc」は私の青春(学生時代)の出来事です。
音楽の存在意義は「政治・思想・宗教・民族を超えるところに在る」と云う信念の元,これらに一定の距離を置いていた私でさえも闘争の渦中に危うく呑み込まれそうになった時代でした。新宿の青梅街道の歩道橋で全学連と機動隊の戦いに遭遇した時には歩道橋に投石が飛びかい,やがて機動隊の催涙弾が小田急デパートの壁面に放たれ,新宿駅が火炎瓶で燃え盛る、、、今では考えられない時代だったと思います。
日本史・世界史・音楽史を得意科目としていた私には右系を徳川方とすると左派系の豊臣方が敗れ駆逐されて行った時代に思えました。
なので私的には今は昭和の関ヶ原の戦いに勝利した阿部将軍の時代。
鎖国の伝統を守りシリア難民受け入れは数人で江戸城の金庫はカラ(笑)。この社会的な闘争とは全く異なりますが大学4年の時,桐朋学園でも旧体制側(恩師の井口愛子・井口基成・斎藤秀雄・etc)と桐朋の近代化を目指す新体制側のO教授・T教授側に分かれ激しい対立が学内で生じました。
恩師に頼まれ私はその間に立って意見を調整して行く役割を担い,双方の激しい口調(喧嘩⇒ヘイトスピーチ)の言い分を聞く事態に直面しました。
結局「感情論は理論派に負ける」形で恩師の井口愛子教授は桐朋を辞め東京音大へ迎えられる事になりました。
その結果,一緒に東京音大に迎えられた門下の(野島 稔,弘中孝,鷲見加寿子,菊池麗子、etc)の各教授や学長は東京音大を飛躍的に発展させ桐朋に負けない学校に発展させるに至りました。残念ながら日本では学校法人を隠れ蓑に大学始め学校法人の不祥事が絶えません。
経営者が欧米の隠し口座などに脱税しつつ職員給料をカットをし,労働組合作ろうとした教員は排斥されたり。
学校は学内問題や不祥事は隠ぺいし外に出ない様に庇い合いますから週刊文春や新潮に掲載されるには至らない場合が多いにも関わらず最近でも北大・東大を始めとした不祥事のNewsが時折流れます。
歴史は繰り返され最近も某音大の性悪先生の不祥事がIT上で拡散されたり、経営側と教育現場との対立が実際の教育に影を落としている大学などが沢山あります。
渦中に居る私は常に手塩にかけて育てた生徒を預ける大学に自浄作用を求めたい気持ちでいます。そんな中,恩師と共に東京音大へ行った諸先輩とは一線を画し私は疾風怒濤の精神での音楽教育改革をとの思いから札幌Conservatoire????を創設し現在に至ります。
私の疾風怒濤の精神に対して「現実主義者」との闘いが今では懐かしい思い出ですが,こん日こそナポレオン的人材の登場が渇望されている時代は無いように感じます。
若手実力派の音楽家が学園紛争などの事態に直面した際に取るのは「個人主義的な態度で我関せずで済ます」か「保身に走って体制側に媚びるか」のどちらかです。
体験上,経営側に意見・文句・問題点を述べた結末は「首」です。なので彼らには少しの勇気と実行力と決断力を持って音楽教育の理想と自己実現を目指した札幌Conservatoire????の様な音楽院を全国各地に創設して欲しいと願っています、、、なぜならそうでもしないと世の中は変わらないからです。
齢(よわい)を重ねるにつれ札幌Conservatoire????を創設して本当に良かったとの思いがつのります。
なぜなら此処,澄川に常に「音楽教育と音楽の理想を実践する場」が在るからです。宮澤功行モデレーター《疾風怒濤の教育 (クオーレ⇨Cuore 心)》
現在,私は日々Muses(音楽の神々)に仕え札幌を愛し,キタラを愛する札幌市民の一人として暮らしています。
昔,味わった理不尽極まりない仕打ちも全て乗り越え今や苦悩や絶望の痕跡すら感じさせない幸せを享受しています。
素晴らしい家族と生徒に恵まれ音楽をする理想的な環境の実現は正に高校生時代の私の夢物語の世界です。
なので私自身は札幌市と私を取り巻く全ての人々に感謝して生きています。But齢を重ねた現在,理不尽な仕打ちや虐めにあっている尊敬する人達の現況に可能な限り手を差し伸べたいと思うに至りました。
何故なら今在る自分はそういう人達が支えてくださったからにほかならないからです。
その一人に私が尊敬して止まない調律師の多米 実さんの抱えている問題があります。
この問題の経緯について要約しますとキタラ開設時からピアノの調律はYamahaのお店であるエルム楽器が独占しています。
同業他社の入札も参入も受付ずですから客観的に見ても6台在るドイツのピアノを日本のYAMAHAのいち小売店の調律師のみがキタラの調律を行うこと事になっています。全く可笑しい話しです。
そして何よりも技術者やピアノ業者間の競争原理が全く働かない事態を20年に渡り続けている異常な体質はその楽器店とキタラの癒着さえも疑わせている事です。
そしてこの事以上に私が許せないのはスタインウェイピアノの最高位の技術マイスターの資格を取得している多米 実さんに調律を依頼した場合,一切調律をしないでただ多米さんの調律を見張っているYAMAHAの見張り役が常にそばに居ることです。
その上全く調律をしないその見張り役の代金も多米さんの調律代金とは別に演奏者が支払わなければならない事。
つまり調律代金を二倍払わなければならない仕組みが今尚続いていることです。
つまり偉大な多米さんに調律を頼んだ場合、演奏者はいつも二倍の調律代金を支払わなければならない理不尽な状況が続いているのです。
此れでは二倍払って多米さんに調律を頼む演奏家は居なくなりますよね。
此れは多米さんへの嫌がらせでありキタラ側が会館としての権力を振りかざして多米さんを虐めている様にしか見えない仕打ちだと私には思えます。
(勿論,多米さん以外のKawaiなどに対しても同様の仕打ちがなされ続けています。)
会館開設当時,札幌市のオンブズマンがこの可笑しな問題を改めるよう訴えましたが無視。
私もキタラ館長に改めるよう手紙を書きましたが(仕組みがそうなっているから変えない)との返事を受け取りました。
多米さんの人間として,又長年培ってきた技術者としてのプライドもズタズタに傷つくこの様な事態を私は矢張り見過ごすことが出来ず秋元市長に文章と共に直接改革改善をお願い致しました。
その結果(市長から業務改善命令が出たからスタインウェイの代理店・井関楽器店をエルムの他にキタラに入れるようにした、、、この事は会館始まって以来の大改革)との報告を受けました。
ところが多米さんへの調律に関しては一切変わらずで相変わらず見張り代金も徴収するとの事です。
私が変えて欲しい肝腎要な事は全く変わらないのです。
こんな仕組みが続いている事は大変可笑しいと思いませんか??
良い仕組みは残し誰が見ても,また客観的に考えても悪い事は改革改善をして行かなくては札幌市の明るい未来は築けないと私は思います。
札幌市の職員キタラの従業員が市長の改善改革命令に従わない事も異常事態です。
行政能力を問われることだと思います。
私は尊敬する多米さんの技術者としての魂の救済のために微力を注ぐ決意をし,この事を再度,秋元市長と局長に訴え新聞社へも投げ掛けてみました。
此れで変わらないなら愛する札幌市に暗雲が立ち込める気がしています。宮澤功行モデレーター《疾風怒濤の教育 (クオーレ.2)
〜〜人生は全て涙の恩返し〜〜
齢(よわい)を重ねるにつれ浮かび上がるのは涙と共に味わった人と人との心(Cuore)の物語です。
私に文才があればと,その感動を小説にして伝えられないもどかしさを感じ,悔やまれます。
何故なら私の体験した事ごとはどれもが一冊の小説になる様な話しばかりですから。
最近は前回のCuore,1に書きました私と偉大な調律師・多米 実さんのお話です。
詳細は1に書きましたので割愛しますが公の仕組みを変えるのは一筋縄ではいきません、、、意見を述べても(仕組みは変えられません)との返事で跳ね返されます。
今回も試しに下記の意見をキタラに送信しました。
————————————————–
【お問い合わせ項目】Kitaraに関するお問い合わせ【氏名】宮澤功行
【会社・団体名】札幌コンセルヴァトワール
【お問い合わせ内容】
謹啓:キタラ館長様へ
前略ご免下さい。以前(約10年前)キタラ館長にお手紙を,そしてキタラ掲示板にお願いを書きました宮澤です。
私の意見の詳細に関しては長くなりますので(https://conservatoire.fcg.world/)の掲示板(疾風怒涛の教育とは「クオーレ,1」)をお読みください。
この件につきましては秋元市長にも同様の意見を文書と共にお渡ししています。
今私のFacebookやBlogの書き込みを読んだ方々からSNS上でキタラのピアノ調律の際に『スタインウエイ最高のマイスター資格を取得している多米実さんにYamahaの若い調律師が常に見張りをする構図事態が狂っている事と,その上,多米さんに調律を依頼した場合,この見張り料も払うため調律代が二倍かかるというのも狂っている』と云う二点にしぼり,このサイトで署名を求めてはどうでしょうか?( https://www.change.org/ja )』というAdvice頂いていますがSNSで札幌の恥を世界に晒すことは避けたいので躊躇しています。
又,ネットを読んだ東京の調律師さんからこの件に関して『東京や横浜の大ホールでは見張り料など存在しません。 此れはほぼ多米調律師へのピンポイントの嫌がらせ、エルム楽器の独占癒着会館(キタラ)に限るお話しなのではと確信しております。YAMAHAミュージック札幌すらキタラを締め出されたと云う噂が東京で流れていますがキタラの様な立派なホールをいちYAMAHAのお店が牛耳る事,事態がおかしな話です。etc…』とのMessageを頂きました。
この問題はYAMAHAが悪い訳では無いのですが全くもって札幌の恥です。
私が北海道支部会長を務めているPTNA全日本ピアノ指導者協会ではこの度,多米 実さんを北海道文化功労者に推薦させて頂きました。
この件の改善・改革をどうか宜しくお願い申し上げます。 敬具
上野学園大学客員教授・全日本ピアノ指導者協会評議員&北海道支部会長
札幌コンセルヴァトワール院長:宮澤功行
————————————————–
この文章の他にも札幌市長,副市長,局長にも偉大な調律師・多米 実さんの魂の救済についての意見書をお渡しし,意見も述べさせて頂きました。
その結果20年以上変わらなかったキタラの調律師システム(仕組み)が大幅に変わることになりました。
具体的な発表は一週間後ですが先ず多米さんは自由にキタラで調律師としての仕事が出来るようになりました。
そして多米さんに調律を頼んでも多米さんを見張るYamahaの調律師の分と二倍支払わなければならなかった調律代金が多米さんの一人分でOKになりました。
何よりもエルム楽器が独占していたキタラのピアノを井関楽器店も入れることになりました。その他諸々のキタラ改革が大幅に為される事になり札幌市民のみならずキタラを使用する音楽家にとって最高の形になることになりました。*,皆んな可笑しいと解っていて,多米さん個人への嫌がらせと言うことも解っていたのに(臭いものに蓋、さわらぬ神に祟りなし、何か言うと面倒、自分には直接関係無い、、、etc)と言うことで20年以上変わらなかったキタラのピアノ調律システムが変わり良くなって行くことが私は大変嬉しいです。
この事について多米さんから何度も私へ感謝の電話が有りました。
他人の不幸には我関せず自分のことしか眼中に無い利己主義者が万延する中で私は多米さんが20年に渡り理不尽な目にあってきた事に最早沈黙しては行けないと思って行動した訳です。
自分のことや立場がたとえ危うくなっても50年培ってきた多米さんとの男の友情、信頼、尊敬仕合い,高め合う心の方が私にとっては大切でした。
文章力はいたりませんが結果は全てにおいて素晴らしいです。
何もしないで良い子ぶりっ子を極め込んでいる自分を許せなかった今回の行動なのですが矢張り行動して良かったと思います。
応援してくれた方々と心配しながら見守ってくれた方々へ心より感謝致します????*.この歳でまたまた(疾風怒濤)の魂になってしまいましたが《もし北海道で私が疾風怒涛を掲げなかったら頭で描いた音楽教育上の理想や夢は何一つ成就できなかったと思います。つまり疾風怒涛はあらゆる分野で既成概念を超えた新たな世界を世に示していく精神であり魂の事だと思っています。*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)’・*:.。. .。.:*・゜゚・》
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